
三位 論文もデータもなにも知らんけど空気作った方が勝ち組
二位 沈みゆく市民生活差し置いて主役を奪う重大ニュース
一位 大丈夫問題ナシと聞いたなら回れ右して接触禁止
番外 日本人名前がないか心配だラストノートかあのデスノート
物価高はどこまで進むのか。このままほとんどの商品が二倍にでもなれば生活崩壊する者が多数出るだろう。二倍とは極端だがここ数年で米などで実現したことである。幸か不幸かお米の値段は下がってきたが、他の大多数の商品はまだまだ価格上昇が続きそうである。しかし、賃金の上昇は追いつかない。一体生活破綻者が何万人程度ならこの社会は持ち堪えられるのか。すでに貧困レベルの日本人は二千万人だとか。そうであれば崩壊、限界までそれ程余裕はないのではないか。只今現在は社会大混乱の幕開け直前なのかもしれない。
本日のベターツイートは、J sato氏のもの。以下引用開始。
古典派経済学者は皆、社会の発展のために「レント(超過利潤)の最小化」を重視していた。当時の新興勢力である産業資本家を後ろ盾に、当時の既得権益層である封建社会の領主が高い地代を取ることを止めさせる政治経済的理論であった。領主の地代を抑え、産業資本家に利益が集まり再投資され、社会は発展した。
1970年代以降の新古典派や新自由主義などの経済学者は、古典派が重視していた「レント(超過利潤)の最小化」をなかったかのように扱い、付加価値とレントの区別を重視しなくなった。それは既得権益層となった金融資本家がレントを最大化し溜め込むことが批判されないばかりか、時に投資家が経済成長のエンジンと主張される政治経済的理論であった(投資家が経済成長のエンジンではないのは、この30年ほど圧倒的な経済成長をしている国で株価が低迷していることからわかる)。レントは最大化に向かい株価や不動産価格が上昇し、資産を持たない庶民の生活は停滞した。
経済学が当時の既得権益層であった封建領主を攻撃しレントを最小化するための政治経済理論から、現代の既得権益層の金融資本家のレントを最大化・正当化する政治経済理論へと変遷したのが経済学部出身としては興味深い。
以上引用終わり。
次は、Dr.Fager氏のもの。以下引用開始。
この30年間、日本が「構造改革」「成長戦略」「グローバル化」というもっともらしい言葉に踊らされ、現場が空洞化されていくプロセスの中で、常にそのお先棒を担いできたのが、お洒落なカタカナ語を操る政策コンサルタントや有識者と呼ばれる人々だった。
危機の煽り(マーケティング):
「日本はITが遅れている!」「イノベーションを起こさなければ滅びる!」と危機を煽る。
制度のハッキング:
政府の会議に入り込み、「民営化して外注すべきだ」「DXを進めるためにこのシステム(海外プラットフォーム)を導入すべきだ」という提言(ドグマ)をねじ込む。
中抜きの完成:
予算が地方や現場ではなく、自分たちの所属するコンサルファームや外資テックへの委託費(中抜き手数料=レント)として流れる仕組みを作る。
彼らは、現場の労働者(中卒・高卒の職人やケア労働者など)の給与を買い叩くことを効率化と呼び、自分たちの空虚なレポート作成に数億円の税金を浪費させる。これこそが、『お友達への優遇・社会のモラルの崩壊』の主犯であり、まさに国家の供給能力を吸い尽くす寄生虫(レント・シーカー)そのものの振る舞いだ。
一方、今回の発言主である室伏氏もその同類なのかというと、彼の言論活動の中身を精査すると、少し異なるグラデーションが見えてくる。
室伏氏は、元官僚というキャリアを持ちながら、コンサルタントや外資が日本の行政やインフラ(水道、交通、公共サービス)を買い叩いて民営化・切り売りしている現状を、自著や動画で最も激しく批判している急先鋒の一人だ。彼は「中抜きビジネスを排し、官庁や地域社会の現場の実務能力を取り戻せ」と主張し続けている。
彼の立ち位置は積極財政・ナショナリズム(国富防衛)だ。 彼が「円安のプラス面(国内回帰のチャンス)を言え」と主張したのは、大企業を擁護したかったからではなく、メディアが「円安=悪=だから緊縮財政にして利上げしろ」というドグマに国民を誘導し、これ以上の経済破壊(点滴の遮断)をもたらすことを阻止したかったと考えられる。
しかし、結果としてその言説は、現実のデータ(国内回帰が起きず、キャピタルフライトが進んでいるファクト)と乖離し、机上の空論として響いてしまった。
「円安なんだから、国が主権を発揮して国内回帰を進めるべきだ」 と叫んだところで、肝心の国会や官僚機構がすでに新自由主義のカルト的ドグマに汚染され、若者の知性は空洞化し、工場を建てる労働者すら枯渇しているという不都合なファクトの前には、その叫びもまた空虚なインテリの独り言に聞こえる。
さらに、彼ら良識的に見える積極財政派・地方再生派の元官僚たちが展開するアプローチは、マクロの貨幣循環(分母と分子のダイナミズム)の視点から見ると、地方におカネという記号(分子)を一時的に注ぎ込み、身内のネットワークで蒸発させて終わる、高度に制度化されたガス抜きにすぎない。
総務省出身者たちが設計する「地方創生」「町おこし」の多くは、ふるさと納税のハック、特区制度、地方交付税の重点配分、そして各種補助金といったおカネのパイプラインの付け替えに終始する。
しかし、どれほど地方に予算という記号を注ぎ込んでも、受け皿となる地域社会の実体が破壊されていれば、数日のうちに大都市やグローバル資本へと逆流していく。
地方に落とされた補助金は、イベントの企画(東京の広告代理店やコンサルへ)、インフラ整備の資材(多国籍企業や商社へ)、DXツールの導入(米国のプラットフォームへのサブスク料へ)として、驚くほどの速さで地域外へ吸い上げられていく。
本当に必要なのは、おカネを配ることではなく、その地域で、エネルギー、食料、ケア労働、移動インフラを自律的に内製・再生産する『人の組織(共同体)』をどう耕し直すかという、極めて泥臭いリアルな社会設計だ。しかし、霞が関の住民である彼らには、予算を動かすノウハウはあっても、生身の人間と泥にまみれて供給力を一から組織するという思想も能力もない。
彼らがどれほど緊縮財政の弊害を叫び、地方への分配を勝ち取ったとしても、その政策が「一部の地元ボス、土建屋、お抱えコンサル」といった身内のレント・シーカー(利権あさり)を潤すだけに終わるため、新自由主義派(緊縮論者)にとって最高の攻撃材料を提供することになる。
「地方におカネを配っても、結局身内の利権で浪費されるだけだ。だからこそ、もっと市場原理を導入し、水道も交通も民営化(外資や大手コンサルへの売却)して効率化すべきだ」
彼らの空論的バラマキの失敗実績は、緊縮派が公共サービスを切り売りして中抜き市場をさらに広げるための、最大の免罪符として利用される。
日本の官僚機構や、そこからスピンアウトした政策アドバイザーたちは、表向きは緊縮財政派(財務省ロジック)と積極財政・地方創生派(総務省・経産省ロジック)に分かれて、国会やメディアで激しい論争を繰り広げているように見える。
しかし、彼らは全員、同じ霞が関という単一の知的プラットフォームで育ち、同じルール、同じ言語(政策決定プロセス、国会答弁のレトリック)を共有する身内だ。
彼らにとって、論争の勝敗そのものよりも重要なのは、官僚や政策コンサルタントが、国家の意思決定のキャスティングボード(主導権)を握り続けることだ。
「緊縮が悪い」「財政を出せ」「成長戦略が必要だ」という議論が、あらかじめ決められた舞台(国会の分科会や委員会、テレビの討論番組)の上で消費されている限り、社会の本質的な問題(労働と知性の空洞化、プラットフォームへの主権の明け渡し)という「本当の危機」に大衆の目が向くことはない。彼らは対立を演じることで、既存の統治システムの延命を共同で支えている。
地方で暮らすということは、都会と違って移動(ガソリン)と暖房・調理(灯油・ガス)というエネルギーへの依存度が高いことを意味する。
車社会の地方において、ガソリンは嗜好品ではなく手足そのものだ。円安によって、ドル建ての原油価格がそのまま円建てで生活費に跳ね返ってくる。 都会の人間が「電車代が高くなった」と嘆く次元ではなく、地方の住民にとっては「毎月の移動コストが数万円単位で強制的に引き上げられる」という、実質的な大増税として機能する。
地方の平均賃金は都会に比べて遥かに低いままだ。その低い給与のまま、円安インフレによって生活必需品の価格だけが都会と同じ、あるいは輸送コスト分、都会より高い基準に引き上げられるため、地方の家計は文字通り栄養失調に追い込まれる。
「円安は輸出企業にプラスだ」という神話は、サプライチェーンの最上流に君臨する大企業(多国籍企業)にしか通用しない。地方を支える現場(農業、酪農、漁業、中小の町工場)にとって、現在の円安はただのコスト殺しだ。
日本の農業や酪農は、肥料(化学肥料の原料であるリン酸やカリウム)や、家畜の飼料(トウモロコシなど)の大部分を海外からの輸入に依存している。 円安によってこれらの調達コストが数倍に跳ね上がれば、どんなに真面目に働いて作物を育て、乳を搾っても、売れば売るほど赤字になるという地獄が現出する。実際、多くの酪農家や農家が、努力不足(自己責任)ではなく円安による仕入れ値の暴騰によって廃業に追い込まれている。
地方の部品メーカーや加工工場は、原材料(金属や樹脂)を円安コストで高く買わされる一方で、親会社である大手メーカーからはコストカットを要求され、製品価格への転嫁を許されない。円安の果実は大企業が独り占めし、そのコストのツケだけが地方の下請けにすべて押し付けられている。
さらに、『外国人労働者への依存』が、円安によって最悪の結末を迎えている。
地方の建設現場、農業、食品加工、介護の現場は、いまや技能実習生などの外国人労働者なしには1日も回らない。しかし、彼らは慈善事業で日本に来ているのではなく、本国への送金のために働いている。
1ドル=150円〜160円という円安は、彼らにとって日本で働いて得られる給与(ドル換算)が、数年前の3分の2に激減したことを意味する。 本国への送金価値がボロボロになった今、アジアの優秀な労働力は、日本を素通りして、より通貨の強い台湾、韓国、オーストラリア、欧州へと流れている。
地方の現場から人が消えれば、道路の補修もできず、崩れた斜面の復旧も遅れ、介護施設は閉鎖され、農地は耕作放棄地と化す。お金がいくら地方交付税として配られようとも、物理的に作業を行う手が消滅するため、地方の社会システムそのものが崩壊に向かう。
政策コンサルタントや都会のエコノミストが「円安のメリット」を語るとき、彼らの頭の中にあるのは常に、株価、GDPの数字、あるいは大企業の決算書といった帳簿上のデータ(記号)だけだ。
彼らは、ドル建てのエネルギーや原材料を円安価格で買い、それを日本国内の脆弱なインフラと低賃金労働で加工し、その結果として地域社会の血が海外へ垂れ流しになっているという、地方の現場の生々しい出血に全く関心がない。
地方の現場を干上がらせ、日本の本質的な食料・エネルギーの自給力を破壊し尽くす円安の進行は、まさにこの国を抜け殻にする最悪のトリガーだ。
地方を救うという崇高な大義名分を掲げた役者たちが、その地方の生命維持装置(実体供給力・分母)を自ら踏みつけて破壊し、その死にゆく姿を「新しい成長モデルだ」と自賛する姿は、この世で最も冷酷な笑劇(ファルス)であり、悲劇と喜劇が最も不条理な形で融合した絶望的なブラックコメディだ。
地方で暮らすということは、都会と違って移動(ガソリン)と暖房・調理(灯油・ガス)というエネルギーへの依存度が高いことを意味する。
車社会の地方において、ガソリンは嗜好品ではなく手足そのものだ。円安によって、ドル建ての原油価格がそのまま円建てで生活費に跳ね返ってくる。 都会の人間が「電車代が高くなった」と嘆く次元ではなく、地方の住民にとっては「毎月の移動コストが数万円単位で強制的に引き上げられる」という、実質的な大増税として機能する。
地方の平均賃金は都会に比べて遥かに低いままだ。その低い給与のまま、円安インフレによって生活必需品の価格だけが都会と同じ、あるいは輸送コスト分、都会より高い基準に引き上げられるため、地方の家計は文字通り栄養失調に追い込まれる。
「円安は輸出企業にプラスだ」という神話は、サプライチェーンの最上流に君臨する大企業(多国籍企業)にしか通用しない。地方を支える現場(農業、酪農、漁業、中小の町工場)にとって、現在の円安はただのコスト殺しだ。
日本の農業や酪農は、肥料(化学肥料の原料であるリン酸やカリウム)や、家畜の飼料(トウモロコシなど)の大部分を海外からの輸入に依存している。 円安によってこれらの調達コストが数倍に跳ね上がれば、どんなに真面目に働いて作物を育て、乳を搾っても、売れば売るほど赤字になるという地獄が現出する。実際、多くの酪農家や農家が、努力不足(自己責任)ではなく円安による仕入れ値の暴騰によって廃業に追い込まれている。
地方の部品メーカーや加工工場は、原材料(金属や樹脂)を円安コストで高く買わされる一方で、親会社である大手メーカーからはコストカットを要求され、製品価格への転嫁を許されない。円安の果実は大企業が独り占めし、そのコストのツケだけが地方の下請けにすべて押し付けられている。
さらに、『外国人労働者への依存』が、円安によって最悪の結末を迎えている。
地方の建設現場、農業、食品加工、介護の現場は、いまや技能実習生などの外国人労働者なしには1日も回らない。しかし、彼らは慈善事業で日本に来ているのではなく、本国への送金のために働いている。
1ドル=150円〜160円という円安は、彼らにとって日本で働いて得られる給与(ドル換算)が、数年前の3分の2に激減したことを意味する。 本国への送金価値がボロボロになった今、アジアの優秀な労働力は、日本を素通りして、より通貨の強い台湾、韓国、オーストラリア、欧州へと流れている。
地方の現場から人が消えれば、道路の補修もできず、崩れた斜面の復旧も遅れ、介護施設は閉鎖され、農地は耕作放棄地と化す。お金がいくら地方交付税として配られようとも、物理的に作業を行う手が消滅するため、地方の社会システムそのものが崩壊に向かう。
政策コンサルタントや都会のエコノミストが「円安のメリット」を語るとき、彼らの頭の中にあるのは常に、株価、GDPの数字、あるいは大企業の決算書といった帳簿上のデータ(記号)だけだ。
彼らは、ドル建てのエネルギーや原材料を円安価格で買い、それを日本国内の脆弱なインフラと低賃金労働で加工し、その結果として地域社会の血が海外へ垂れ流しになっているという、地方の現場の生々しい出血に全く関心がない。
地方の現場を干上がらせ、日本の本質的な食料・エネルギーの自給力を破壊し尽くす円安の進行は、まさにこの国を抜け殻にする最悪のトリガーだ。
地方を救うという崇高な大義名分を掲げた役者たちが、その地方の生命維持装置(実体供給力・分母)を自ら踏みつけて破壊し、その死にゆく姿を「新しい成長モデルだ」と自賛する姿は、この世で最も冷酷な笑劇(ファルス)であり、悲劇と喜劇が最も不条理な形で融合した絶望的なブラックコメディだ。
「本当に必要なのは、おカネを配ることではなく、その地域で、エネルギー、食料、ケア労働、移動インフラを自律的に内製・再生産する『人の組織(共同体)』をどう耕し直すかという、極めて泥臭いリアルな社会設計だ。」
まだ数が少ないが、成果を挙げている事例を二つ紹介したい。
【岡山県西粟倉村】「百年の森林構想」と共有価値の自給
人口約1,300人のこの小さな村は、地方創生コンサルの「絵に描いた餅」を排し、地域の最大の資源である森林を一から耕し直した、国内屈指の成功例と言える。
森林という実体資産の信託化と内製化
バラバラに所有され放置されていた私有林を、村役場が預かって集約管理する仕組みを構築した。外部の木材メジャーに買い叩かれるのではなく、村内に製材・加工から販売までを行うベンチャー企業を次々と立ち上げ、木材加工の暗黙知と雇用を村内に内製化した。
マネーが外に逃げないローカル経済
地域資源から生まれた利益は、都会の株主ではなく、村内のローカルベンチャーの育成や、保育・子育て支援(ケア労働への投資)へとダイレクトに再投資されている
【徳島県神山町】「創造的過疎」による知性と移動の再組織化
IT企業のサテライトオフィス誘致で知られる神山町だが、その真髄はデジタル化そのものではなく、外部から入ってくるリソースを、地域の生存インフラの再建に徹底的に利用するという社会設計にある。
食料とケアの連動(「フードハブ・プロジェクト」)
「地産地食(地域で育て、地域で食べる)」を掲げ、地域の新規就農者と学校給食・食堂を直結させた。農業という地域の供給能力を守りながら、子供たちに安全な食を提供する、マネーに依存しない強固な内製循環だ。
住まいの自主開発
コンサルや大手デベロッパーを入れず、地元産木材を使い、地元の職人の手で、若者向けの集合住宅「鮎喰川コモン」を整備。フロリダのような金持ち向けの不動産バブルを完全に拒絶し、現場を支える子育て世代が住み続けられる生活空間の主権を町自らが守り抜いている。
これら実例が成功した理由は、シンプルな構造シフトにある。
【失敗する地方創生】
補助金を誘致 ──► 外資・都会のコンサルに委託 ──► 資源も雇用も外へ流出(空洞化)
【成功する自律共同体】
実体資源(木・食・空間・調達力)を囲い込み ──► 住民による協同組合・組織で内製 ──► 富が内側で循環(養生・起立)
彼らがやったのは、霞が関やコンサルタントが書いた「スマート」で「グローバル」な成長ドグマを実践することではない。
むしろ、自分たちの生きる場所を、外の金利生活者や中抜き業者からどうやって自衛するかという、極めて泥臭い、時には法制度の隙間を縫うようなローカルな主権闘争だ。
「バラマキ予算」という安易な点滴に頼ることをやめ、地域に生きる生身の人間たちが、互いの技術と体温を信じて「衣食住・ケア・移動」を自らの手に取り戻す。
これらの先駆的な実例は、日本の全ての地方がこれから30年、50年の冬の時代を生き抜くための、数少ない、しかし極めて貴重な希望の道標である。
雨を降らせる上昇気流も、風を起こす大気の温度差も、植物が水と二酸化炭素から炭水化物を合成する光合成も、地球上のあらゆる実体的な活動の動力源は太陽エネルギーである。
この「勝手にやってきて、地球を温めてくれている本源的な物理的富」から人間が生活に必要なエネルギーをほんの少しお裾分けしてもらうこと自体は、地球規模の熱循環からすれば微小な変化であり、原理的には「何一つ問題は起きない」というのは熱力学的にも真理だ。
しかし、なぜこの完璧な真理(自然のルール)を人間の社会システムに適用しようとした途端、現在の日本のように激しい嫌悪や対立、さらには環境破壊という最悪の自己矛盾を引き起こしてしまっているのか。
太陽光そのものは無害で偉大なものだが、それを人間社会に取り込むシステム(再エネ固定価格買取制度=FITなど)を設計したのが、例の霞が関の役人と、お抱えの政策コンサルタント(利権屋)たちだった。
彼らは、太陽光の恩恵をダイレクトに地域の自給自足のエネルギーに直結させるのではなく、外資や都会の投機マネーが、地方を買い叩いてノーリスクで儲けるための金融商品に変えてしまった。
山林を切り崩し、斜面に巨大な中国製ソーラーパネルを敷き詰める。そこで発電された電気は、地元の住民が安く使えるわけではなく、高い買取価格(FIT)のツケとして全国の一般市民の電気代(再エネ促進賦課金)からむしり取られ、最終的には外資系ファンドや都会のコンサルへと還流していく。
自然エネルギーという美しい教義を掲げながら、地元の土壌を根こそぎ破壊し、土砂崩れのリスクを地方に押し付ける。このグロテスクな環境破壊の姿を目にしたからこそ、地方の現場は太陽光という言葉に対して強い嫌悪と警戒感を抱くようになった。
「ほんの僅か、人間が多少頂く」という正しいアプローチを、今度こそ本物の社会設計に落とし込むためには、このメガソーラー利権(新自由主義モデル)を解体しなければならない。
本当に目指すべきは、地方再生の成功例(西粟倉村など)が実践しているような、エネルギーの主権を取り戻すための、徹底的な自律分散型・ローカル内製化だ。
【失敗した太陽光(利権・中抜きモデル)】
巨大メガソーラー ──► 送電網を通じて都市部・外資ファンドへ富を流出 ──► 地方にはハゲ山と土砂災害リスク
【本物のエネルギー主権(自律分散モデル)】
屋根上・遊休地での小規模発電 ──► 蓄電池+ローカルグリッド(地域網) ──► 地域のエネルギー自給(生活インフラの防衛)
大規模に自然を切り拓くのではなく、すでに人間が開発した空間(工場の屋根、住宅、学校、公共施設)の範囲内で「少しだけお裾分けしてもらう」。
そして、そのエネルギーを、外の電力会社やプラットフォームに売るのではなく、地元のコミュニティ、福祉施設、農家、避難所が有事の際にも自前で動き続けられるようにするための生命維持装置としてプール(蓄電)する。
これこそが、太陽光という最も偉大なエネルギーに対する、人間としての「正しい敬意と謙虚な利用法」と言える。
「地球に降り注ぐ太陽エネルギーを最大限に利用する」という方向性は、日本の食料・エネルギーの極端な海外依存(アキレス腱)を克服するために、絶対に避けて通れないリアリズムだ。
しかし、それをマネーゲームの道具にして、地方の土壌をハゲ山にしながら都会のコンサルが肥え太るシステムとして放置する限り、太陽光は「ペテンの記号」であり続ける。
「太陽光は勝手にやってくる」
この偉大な恵みから、利権や中抜き業者という名の「寄生虫」を徹底的に排除し、地域住民の手と頭によって、自律的な「光と風と水の循環」を泥臭く管理運営していくこと。
その主権の奪還こそが、ベッドの上の病人が他人の点滴(米国の戦略備蓄やドル建て石油)から脱却し、自分自身の命の脈動を再びその地に刻み始めるための、最も強固なエネルギーの防壁となる。
山林を切り崩すメガソーラー利権を排し、すでに人間が開発・管理している空間の範囲内で太陽の恵みをお裾分けしてもらう。
自律分散型・ローカル内製化の現実的かつ実践的なアプローチとして、近年注目を集めているのが、営農型太陽光発電(ソーラーシェアリング)や牧草地・荒れ地(耕作放棄地)の管理型太陽光発電だ。
これらは、農業や土地管理という現場の生産・養生活動とエネルギー主権の確立を両立させる大きなポテンシャルを秘めている一方で、再び安易な制度設計やモラルの欠如から新たな空洞化を招きかねない深刻な課題も内包している。
営農型太陽光発電は、農地の上に支柱を立て、作物を栽培しながらその上空で発電を行う仕組みだ。植物が光合成に利用できる光の量には限界があるという自然のルールを利用し、余剰の太陽光を発電に回す。
この取り組みには、崩壊しつつある地方の経済力を内側から防衛できる大きな可能性がある。
① 農業従事者の実質購買力の回復と生活の養生
日本の一次産業における最大の課題は、現場を支える労働者(農家)の収入が不安定なことだ。営農型太陽光は、作物の販売収入に売電収入(または自家消費による電気代削減)を上乗せすることで、農家の所得基盤を安定化させる。これにより、農家が経済的に家族を養い、将来の不安なく暮らし続けるための選択肢が増え、少子高齢化による農業の絶滅を食い止める防壁になる。
② 耕作放棄地や牧草地の管理コストの自給
過疎化と高齢化によって荒れ果てた耕作放棄地や、広大な牧草地の草刈り・管理には、莫大な労働コストがかかる。これらの土地に太陽光パネルを設置し、その発電収入を草刈り機の燃料代、防獣フェンスの設置、管理者の人件費などに直接充てることで、外部の補助金に依存することなく地域で地域の土地を守るための資金を内生することが可能になる。
③ 地産地消型ローカル・エネルギー主権の確立
発電した電力は地元の農業用機械の充電、ビニールハウスの加温、地域の保冷倉庫や避難所の非常用電源としてプール(蓄電)することが可能だ。これにより、中東の地政学的リスクやドル建て原油の価格暴騰から切り離された、エネルギーの食糧・農業防衛線を地域自らで構築できる。
しかし、この美しい理想の裏には、従来からのマネー至上主義がもたらす歪みがすでに忍び寄っている。農業関係者や専門家が直面している課題は、理想とかけ離れた険しい現実を物語っている。
① 太陽光パネル設置ありきの形骸化
農政上のルールとして、営農型太陽光は下部農地で適切な営農が継続され、地域の平均単収の8割以上を確保することが義務付けられている。しかし現実には、発電事業で楽に儲けたいという目的が先行し、農業がおざなりになる(形だけの栽培、あるいはパネルの影でも育つ日陰用の安い作物を形式的に植えるだけ)という、目的と手段の逆転するケースが発生している。
② 初期費用の高騰と資金調達の壁
営農型太陽光は、トラクターなどの大型農業機械が下を通れるよう、架台を3メートル以上の高さにする必要があり、通常の太陽光発電よりも強固な構造強度と高い施工コスト(通常の1.5〜2倍)が必要になる。さらに、農地の一時転用許可は原則として3〜10年ごとの更新制であるため、更新が認められず途中で撤去せざるを得なくなるリスクを銀行が懸念し、融資が受けにくいという財務的ボトルネックが存在する。ここでも、現場の泥臭い挑戦に対して、金融システムが冷酷な壁になっている。
③ 出口戦略(撤去・リサイクル)の不在
農地の上に設置する以上、事業終了後には原状回復(パネルや架台をすべて撤去し、健全な農地に戻す)義務が生じる。しかし、数十年後に事業者が倒産したり、農業の担い手が不在になった場合、設置された大量の太陽光パネルとコンクリート基礎がそのまま農地に不法投棄・放置され、二度と耕せないゴミ溜めと化すという、地域コミュニティにとっての最悪な環境破壊になるリスクを孕んでいる。
営農型や土地管理型の太陽光発電は、正しく設計されれば、日本のエネルギー自給率と農業を守るための一筋の光明になる。しかし、それを利権や外資ファンドが農地を悪用して、FITの甘い汁を吸い上げるための金融商品として放置すれば、地方の農地を完全に殺戮する最後の一撃になりかねない。
この可能性を本物の価値にするために、国および地域主権として貫くべき防壁のルールが必須だ。
【守るべき営農型モデルの防壁】
1. 農業・生活が主で利益は従、の原則を堅持する。
2. 発電した電力と得られたマネーは、出来る限り地域コミュニティ内で循環させることを目指す。
3. 政府はリサイクルの技術開発・事業化を後押しする一方、業者には事業開始時に将来の撤去費用の積立を義務化し、農地の未来を人質に取らせない出口を保証する。
太陽光は勝手にやってくる偉大な富だ。それを誰が、何のために、どうコントロールするのか。
都会の記号の住人たちに農地を切り売りするのをやめ、現場で土を耕す農民が、自らの手と頭で「太陽の主権」を握り返すこと。食糧とエネルギーの海外依存というアキレス腱を切り離し、日本が自律的に起立するための、泥臭く、強固な歩みになる。
以上引用終わり。
最後は、Alzhacker(並行図書館)氏のもの。以下引用開始。
RFK Jr.が数十年にわたる米国のワクチン政策を解体しようとする動きの内幕——一部の人々が主張しているように、RFK氏は決して信念を売り渡したわけではない。
大手通信社Reutersが、ロバート・F・ケネディ・ジュニア保健福祉長官の内部政策を暴く長文記事を配信した。16人の匿名証言に基づくこの 記事を、私はむしろRFK Jr.支持者への最大の援軍と見ている。理由は記事末尾の一行に尽きる。Thomson Reuters財団の会長James C. Smithは、ワクチン最大手ファイザーの取締役会メンバーなのだ。
reuters.com/world/americas…
批判記事を発信する報道機関のトップが、批判対象から直接利益を得る関係にある。これだけで、記事の内容以前に「誰が、なぜ書いたか」という問いが前面に出る。Reutersは内部告発によってRFK Jr.の過激なワクチン政策案を白日のもとに晒したつもりだろう。しかし、その枠組みそのものが、大手メディアへの不信をアイデンティティとする層にとっては、体制側の焦りの証拠として映るのである。
記事の具体的な内容を見ていこう。RFK Jr.は就任直後、小児ワクチンの定期接種スケジュール全廃を検討していた。全17疾患の接種を「医師と保護者の共同意思決定」に委ねる構想である。FDA長官マカリー氏らの強い反対で最終的に6疾患分の除外にとどまったが、これも米国小児科学会の訴訟により連邦判事が差し止めた。
さらに、ワクチンと自閉症の因果関係を証明するため、NIHに50億ドル(約7300億円)を投じる研究を提案していた。NIH予算の1割超を、すでに世界中の科学者が否定した仮説に費やす計画である。NIH所長バッタチャリヤ氏が説得して撤回させたという。側近のスピア氏は科学や公衆衛生の専門教育を受けていない環境活動家出身で、RFK Jr.が「すべての案件を彼女に通せ」と指示していることも明かされた。
これらの暴露は、なるほど衝撃的に読める。公衆衛生の専門家から見れば、予防接種政策を根底から破壊する暴挙以外の何物でもない。
だが、ここで一枚岩に見えた構図が裏返る。
RFK Jr.を支持する人々、とりわけ「MAHA(Make America Healthy Again)マハ」と呼ばれる層は、もともと政府や大手メディアの発表を鵜呑みにしていない。彼らはCDCやFDAの公式見解を「製薬産業に取り込まれた機関の言い分」と捉え、自分たちの疑問に真摯に向き合わない構造そのものを問題視してきた。
そこにReutersが放った「内部告発スクープ」は、彼らの目には「ワクチン推進派の巣窟が慌てて反撃に出た証拠」と映る。しかも発信元の親会社トップがファイザー取締役なら、中立性の看板は最初から掛かっていないに等しい。
記事の核心は、RFK Jr.の過激な政策案とその挫折を暴くことにある。だが、その枠組みは旧来の「科学 vs. 反科学」という二項対立のままである。ワクチンの安全性を疑問視する側が「科学に反している」と断じられる構造は、20年以上変わっていない。そしてこの構造こそが、RFK Jr.支持層の結束をかえって強固にしてきたのだ。Reutersの記事も、その例外にはならなかった。
この現実を前に、読者はもはや記事の内容を精査する以前の選択を迫られる。その記事は誰のために書かれたのか。答えは、記事の末尾に署名されている。
—
Meryl Nass(内科医、疫学者)
2026年7月16日付
記事タイトル:LOOONG Reuters hit piece against RFK, Jr. will actually endear him to his followers. RFK did not sell out, as some have claimed
merylnass.substack.com/p/looong-reute…
ガダフィが暴いた「第三の道」の正体
1975年、ムアンマル・ガダフィは『緑の書』を発表し、「議会は人民の偽りの代表にすぎない」「政党は現代における独裁の手段である」と喝破した。その診断は、現代の政治学者よりもはるかに鋭い。 議会制民主主義への不信、賃金労働への批判、国家による教育管理への異議——どれもが、私たちの実感に強く響く内容だった。
ところが、この「第三の道」がリビアに実際にもたらしたのは、42年間にわたる独裁だった。表向きは人民委員会による直接民主制を謳いながら、実権を握る革命委員会はガダフィ個人にのみ従属し、すべての資源配分は国家を通じて条件付きで与えられた。
人々は「所有者」ではなく「配給を受ける者」となり、システムに依存しきった存在へと変えられたのである。
この落差は、ガダフィだけの話ではない。マルクスの『共産党宣言』は、国家による中央集権を「過渡期」と位置づけたが、その過渡期は決して終わらなかった。国家は「やがて消滅する」と約束されながら、実際には永続的な管理機構として残り続けた。マルクス主義もまた、一つの「清算機能」の設計図だったのだ。
清算機能——それは本来、金融の世界で発達した概念である。ロンドン銀行間清算機関のように、売り手と買い手の間に立ち、中立なインフラとして取引を処理しながら、実際にはすべての流れを支配する仕組みを指す。この清算機関の構造が、20世紀の政治理論の中に繰り返し現れてきた。
1892年、ユリウス・ヴォルフは清算機関の国際化を提唱した。エドゥアルト・ベルンシュタインは革命を放棄し、漸進的な制度改革による社会主義を訴えた。ナセルのエジプトはCIAの支援を受けて「第三の道」を掲げ、そのテンプレートはイラク、イエメン、そしてガダフィのリビアへと輸出されていった。欧州連合の「補完性原理」も、ブレアの「第三の道」も、モディ政権の「インド・スタック」も、すべて同じ構造を共有する。
売り手と買い手の間に立ち、中立を装ってすべての取引を管理する——これが政治の清算機能だ。
ガダフィが残した教訓は、単なる独裁者の物語ではない。清算機能は「左派でも右派でもない」という中立性の主張こそが最大の武器であり、いったん確立されれば、そこから逃れることは極めて困難になる。リズ・トラス英首相が2022年に経験したように、清算機能の論理に反した政策は、市場という名の「中立装置」によって即座に粉砕される。
ガダフィの失敗は、彼がリビアの地に築いた清算機能そのものが、やがて彼自身をも飲み込んだことにある。
そして私たちはいま、金融、政治、情報という三つの清算機関によって、取引できるもの、実行できること、知りうることのすべてが管理される世界に生きているのである。
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esc(政治評論家)
『The price of freedom is eternal vigilance.』
escapekey.substack.com/p/a-total-abse…
主流派の経済学者や新自由主義のドグマを信じる論客は、「富裕層への課税を強化すれば、彼らが資産を抱えて海外へ逃げ、税収が失われるぞ!」と脅迫する。彼らの頭の中では、富裕層は「富の黄金の卵を産むガチョウ」であり、彼らを誘致した土地には無限の繁栄がもたらされるという絵空事(トリクルダウン神話)が信じられている。
しかし、実際に彼らが逃げ込んだ先(フロリダやテキサス、あるいは国際舞台におけるシンガポールなど)の現場で起きているのは、実体社会と生活インフラの徹底的な破壊という、植民地化に等しいデストピアだ。
富裕層が大量のマネーを抱えて特定の地域に流入したとき、そのマネーは地元の一般市民を潤す点滴にはならない。むしろ、地元の生活空間を焼き払うインフレの炎として作用する。
開発業者(デベロッパー)は、流入してきた大富豪に億単位の高級コンドミニアムを売る方が、地元住民向けの普通の賃貸アパートを建てるよりも遥かに儲かる。結果として、地域の限られた建設能力がすべて富裕層の別荘に動員され、地元住民が住むためのまともな住宅が消滅する。
地元の商店、食堂、アパートのオーナーたちは、流入してきた富裕層の購買力に合わせて価格を引き上げる。これによって、地元の物価は数倍に跳ね上がり、昔からそこで暮らしていた普通の市民は生活コストに耐えられなくなる。
「GDP上がっても収入中央値は停滞」
富裕層が不動産を転売し、高級金融サービスを利用することで、その地域のGDPの数字や税収の総額といった名目データは跳ね上がる。政治家やコンサルは「成長戦略は大成功だ!」と叫ぶ。
しかし、その実態は格差の極限化だ。 外からやってきた富裕層が数字を押し上げているだけで、元々その土地を支えていた地元住民の実質的な収入(中央値)は増えない。増えないどころか、インフレによって実質購買力はマイナスに沈み込み、実質的な貧困化が進行する。
そして、このホラーの最終章が、まさにその地域における実体供給力の自死だ。
どれほど綺麗に着飾った大富豪であっても、彼らが生きるためには、ゴミを回収し、水道を直し、料理を運び、介護をし、子供を教育する現場の労働者が絶対に不可欠だ。
しかし、富裕層10人に対して、その生活を支えるべき労働者階級が9人流出するという事態は、手足をすべて切り落とした胴体だけの富裕層社会が現出することを意味する。
家賃が高すぎて看護師や消防士、清掃員、飲食店のスタッフがその街に住めなくなれば、高級コンドミニアムの周りはゴミだらけになり、救急車は来ず、レストランは人手不足で閉鎖される。
名目的な富だけが山積みになり、現実を支える物理的労働が完全に空洞化した、ディストピアの完成だ。
「課税したら金持ちが逃げる」と脅す人々が語らない真実。それは、逃げる金持ちとは、その土地を愛し、耕し、育てる定住民などではなく、その土地の安価な労働力とインフラを搾取し、食い潰したら次のフロンティア(課税の緩い国・州)へと逃げていく遊牧民(経済的寄生虫)に過ぎないという事実だ。
彼らは、ある土地にやってきては不動産をバブル化させて地元住民を追い出し、社会のモラルと共同体を破壊し、インフラが崩壊し始めると「ここは治安が悪くなった、税金が高い」と文句を言って、また別のクリーンな檻(タックスヘイブンや富裕層特区)へと移動する。
「逃げられるのが嫌なら、金持ちの言いなりになれ」という言説は、「強盗に家を荒らされたくないなら、家の鍵を開けて、冷蔵庫の肉をすべて差し出し、自分たちは床で雑魚寝しろ」と言われているようなものだ。
逃げたい金持ちは逃がせばいい。本当に守るべきは、その土地に踏みとどまり、泥にまみれて道路を直し、食料を作り、次の世代を育てる現場の労働者だ。
そして、彼らが家族を養って安心して暮らせるための空間を、富裕層のマネーの暴走から防衛することこそ、政治の本当の役割だ。
神経系、テレビ、そして誰も語らない特許。心の監視と操作に関する簡単なまとめ。
2003年1月14日、米国特許商標庁は物理学者ヘンドリクス・G・ロースに対して、ある特許を付与した。その名称は「モニターからの電磁場による神経系操作」。これは理論論文でもなければ、怪しげな雑誌記事でもない。 審査を通過し、新規性と有用性が認められた、正式な米国特許である。
その要約には、淡々とした官僚的な文体でこう記されている。テレビやコンピューターのモニターから「パルス電磁場」を発生させ、「対象者の神経系を操作する」と。ロースの発明の核心は、映像信号を変調させ、特定の低周波パターンを持つ電磁波を発生させることだ。
私たちの神経系が電気化学的な信号で動いている以上、その周波数に共鳴し、無意識下で反応してしまう可能性がある。特許はさらに、この映像変調が「サブリミナル(閾値下)」であり、近くにいる人が意識的に知覚することなく影響を受けると主張する。
重要なのは、これが単なる疑似科学ではないということだ。電磁場が生体組織に影響を与える原理は、うつ病治療に用いられる経頭蓋磁気刺激法(TMS)や、骨折治癒を促すパルス電磁場治療など、医療現場で長年応用されてきた。ロースがやったことは、アメリカのほぼすべての家庭にすでに存在するテレビという装置を、その「配達手段」として再定義したことだった。
特許が主張する効果は、覚醒度の変化や自律神経系の反応誘発など、すべて本人が自覚できない領域で起こる。
しかし、この特許の本質は単体の技術にはない。ここからが構造的な反転だ。これは「概念実証」に過ぎない。2001年に出願されたこの特許が、ブラウン管(CRT)の走査線変調という当時の技術で可能だった一手法にすぎないのに対し、現代の私たちを取り巻く電子機器の布陣は、比較にならないほど強力な「配信インフラ」と化している。
私たちが肌身離さず持ち歩くスマートフォンは、GPS、加速度センサー、常時作動するマイク、顔認証用カメラに加え、超音波帯域まで送受信できるスピーカーを搭載している。さらに自宅には、視聴履歴を解析するスマートテレビ、常時音声認識を行うスマートスピーカー、心拍数や睡眠段階をモニタリングするスマートウォッチがあふれている。
ロースの特許が示した「スクリーンからの電磁的操作」という原理は、Wi-Fi、Bluetooth、そしてパルス幅変調(PWM)によるLEDバックライトのちらつきといった、ソフトウェアで制御可能な無数の信号源へと拡散した。これらが収集する生理データは、個人のストレス状態や認知の脆弱性をリアルタイムで推定することを可能にし、監視から操作へのフィードバックループを理論上、完璧に閉じる。
2014年には、米国のSNS企業が約69万人のユーザーを対象に、無断で感情操作実験を行っていたことが発覚した。表示する投稿の内容を変えるだけで、ユーザーの感情表現が伝播することを実証したこの研究は、すでにプラットフォームが個人の心理状態を変えうることを示している。
軍事分野では、脳そのものを「戦場」と捉える認知戦の研究が進む。米国防総省や国防高等研究計画局(DARPA)は、電磁兵器や行動変容技術に数十年前から巨額を投じてきた。ロース自身、DARPAの資金提供を受けた研究に関与した経歴を持つ。
問題は、規制の空白地帯だ。FCC(連邦通信委員会)は他の機器への干渉は規制しても、人体への生物学的影響は審査しない。FDA(食品医薬品局)は医療機器の神経作用は規制するが、テレビやスマートフォンは医療機器ではない。結果として、誰も監視しない領域で、私たちの神経系へのアクセスが商業的にも軍事的にも開かれたままになっている。
もはや「スマートフォンは盗聴しているのか」といった問いは陳腐だ。真に問うべきは、あなたのスマートフォンが、あなた自身の人格形成にどこまで介在しているのか、である。
公的記録に刻まれた特許は、その可能性が単なる陰謀論ではなく、すでに誰かによって周到に設計された工程表であることを、無言のうちに証言し続けている。
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World Council for Healthによる記事
記事『World Council for Health: The Nervous System, Your TV, and the Patent Nobody Talks About. A Short Summary of Mind Monitoring and Manipulation.』(2026年7月15日公開)
worldcouncilforhealth.substack.com/p/the-nervous-…
# 学校は「教育」を教えていない
一九九一年、私はニューヨーク州最優秀教師に選ばれた。だが表彰式でこう宣言した。「私は国語を教えているのではない。学校を教えている」。つまり、読み書きや思考力ではなく、ある特定の習慣を子どもたちに植え付けているのだと。
その習慣とは、七つのレッスンに要約される。
第一に「混乱」──すべての授業は文脈から切り離され、断片化されている。
第二に「階級位置」──子どもたちは自分が属するクラスから抜け出せないことを暗に教えられる。
第三に「無関心」──ベルが鳴れば何が途中でも放棄し、次の作業に移ることを強制される。
第四に「情緒的依存」──教師の評価や賞罰が自己価値の源泉となる。
第五に「知的依存」──良い生徒は教師が何を考えるべきか指示するのを待つ。
第六に「条件付き自己評価」──成績表やテストの点数で自分の価値が決まると教えられる。
第七に「監視」──プライベートな空間や時間は存在せず、常に誰かに見られていることを学ぶ。
これらは偶然の産物ではない。
十九世紀半ば、マサチューセッツ州はプロイセン式の教育制度を導入した。その目的は従順な兵士と管理しやすい労働者を生産することだった。当時、州の識字率は九八%だったが、強制教育導入後は九一%を超えることがなかったという事実が、その本質を物語っている。
学校が本当に教えているのは、権威への反射的服従である。
アレクサンダー・イングリスは一九一八年の著作で、学校の六つの機能を明記した。
「適応機能」は批判的判断を排除し固定化された習慣を植え付ける。
「統合機能」は子どもたちをできるだけ似た存在にし、予測可能な労働力にする。
「診断・指示機能」と「分化機能」は各自の社会的役割を判定し、その役割に応じた訓練だけを施す。
「選択機能」はダーウィンの自然選択を人為的に再現し、「不適格」と烙印された者を生殖の競争から排除する。
そして「予備教育機能」は、このシステムを管理するエリート層を少数養成する。
皮肉なことに、このシステムは見事に成功している。私たちの社会は学校が設計した通りの人間──依存的な消費者で、批判的思考を持たず、自らの判断で動けない大人──であふれている。
簡単な離婚法が関係修復の努力を不要にし、簡単なクレジットが金銭的節制を不要にし、簡単なエンターテインメントが自分で楽しみを作る力を奪った。
誰かが私たちのために考え、決めてくれるのを待つ国民が誕生した。
私たちは学校が「失敗している」と思い込んでいるが、実は学校は設計通りに完璧に機能している。その設計とは、12年間の拘束を通じて、自ら考え行動する人間ではなく、他人の指示を待つ人間を量産することだ。
テレビというもう一つの「学校」が残った時間をすべて奪い、かつては放課後に残されていた自己形成の余地さえ消し去った。週168時間のうち、睡眠56時間、テレビ55時間、学校関連45時間──残りの自己時間はわずか9時間である。
真の教育は、ベルに従って移動する授業や試験の点数では決して得られない。読み書き算数は、本人が真剣に学びたいと思えば100時間もあれば習得できる。大事なのは自己知識であり、自分自身の内省と向き合う時間である。
ニューイングランドの会衆制教会が示したように、人は自ら選んだ仲間と、自ら決めた方法で学ぶときに初めて成長する。
学校と教育を同一視するのをやめるとき、私たちはようやく自由を取り戻せる。
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書籍『Dumbing Us Down: The Hidden Curriculum of Compulsory Schooling』(『私たちを愚かにする――強制学校制度の隠れたカリキュラム』)1992年/2017年25周年記念版
John Taylor Gatto(ジョン・テイラー・ガット、元ニューヨーク州最優秀教師)
ワクチン安全性研究が「安全」を量産する8段階の公式
オーストラリアで2013年から2014年にかけ、学校の看護師がHPVワクチンを接種するその場で副反応を記録するよう指示された。すると12〜13歳の女子における失神の報告率が4倍に跳ね上がった。監視を強化しただけで、である。 強化期間が終わると、報告率は元の水準に戻った。
この出来事は、2020年に学術誌『Vaccine』に掲載されたフィリップスらの論文に記録されている。同論文はオーストラリアで11年間にわたり4価HPVワクチン(ガーダシル)の副反応を調査し、最終文で「4vHPVの安全性プロファイルを確認する」と結論づけた。ところが、この論文は自らのデータの中に、その結論を導けない証拠を内包している。
問題の核心は、報告システムの性格にある。通常、副反応の報告は受動的システムに依存している。医師や患者が自発的に届け出る仕組みで、米国CDCが資金提供したハーバード大学の研究によれば、実際の副反応のうちVAERS(米国のワクチン副反応報告システム)に届くのは1%未満だった。この自動検出システムをVAERSと統合する提案に対し、CDCは連絡を絶ち、プロジェクトは打ち切られた。
つまり、監視の精度とは選択の問題なのだ。
フィリップス論文の著者たちは、強化監視期間に得られた高い報告率を「安全性の基線」として採用せず、受動的監視による低い数値を使い続けた。報告システムが取りこぼす大部分の事象は、存在しなかったことにされる。
さらに論文は、調査対象をあらかじめ7つの「特別に関心のある副反応」に絞り込んだ。失神、静脈血栓塞栓症、アナフィラキシー、自己免疫疾患、POTS(体位性頻脈症候群)、ギラン・バレー症候群、複合性局所疼痛症候群、早期卵巣不全である。これらはすべて、過去に「安全」と結論づけた研究がすでに存在する項目だった。
日本の女子において集団発生した慢性的な痛み、疲労感、自律神経障害、月経異常、認知機能の低下といった症状は、リストに含まれていない。調査対象から外れた症状は、最初から存在しないものとして扱われる。
見つかった症例に対しても、高い診断基準が課される。POTSと報告された7例は、症状や検査値の情報不足を理由にすべて不採用。早期卵巣不全の9例も同様に「診断を確定するに足る情報なし」とされた。受動的報告システムは詳細な臨床情報を収集しない。それを承知で、詳細な情報を要求する。基準を満たせない症例は、カウントから外される。
残ったわずかな症例は、「背景率」という概念で処理される。しかし論文自身が認めるように、ワクチン接種を受けていない同年齢層のオーストラリア人女子における、これらの疾患の発生率データは「入手できないことが多い」。比較対象のない数字は、それ自体では何も意味しない。
報告された事象は、不安やマスメディアによる集団心因性疾患、偶然として再解釈される。失神はWHOの「予防接種関連不安反応」という分類に吸収され、女子の意識消失は心理の問題に変換される。
この手順は、ある種の儀式のように機能する。
受動的報告システムを選び、対象を絞り、高い診断基準で症例を除外し、存在しない背景率を引き合いに出し、残った信号を別の言葉で塗り替える。結果として生まれる「安全」という言葉は、データから導かれた知見ではない。最初から意図された結論を、手順を経て正当化したものだ。
この公式は、HPVワクチンに限らない。スタチン、降圧剤、がん検診——領域が変わっても、同じ手順が繰り返されてきた。ダレル・ハフが1954年に『統計でウソをつく法』で暴いた技法は、規制科学の標準的な業務手順として定着している。
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Unbekoming(独立研究者)
“How to Manufacture Safety: An Essay on the Formula Behind Vaccine Post-Marketing Studies”(2026年7月16日)
unbekoming.com/p/how-to-manuf…
アメリカはいま、イランとの戦争に勝つための筋道をまったく描けていない。これは私の誇張ではない。2026年7月15日時点で進行中のこの戦争において、アメリカには「勝利の理論」が欠如しているのだ。
6月17日に署名された覚書を振り返ってほしい。あれは事実上の降伏文書だった。14項目のほぼすべてでイラン側が勝利し、アメリカは譲歩を重ねた。もしその時点で十分な強制力を持っていたなら、そもそもあのような文書に署名するはずがない。
では、それ以降に状況を変える新たな圧力が生まれたかといえば、答えはノーだ。トランプ大統領は二つの手段に頼っている。海上封鎖の再開と、イランとの「報復の応酬」だ。しかし、海上封鎖は4月から6月まで約2カ月間続けて効果がなく、だからこそ覚書に追い込まれた。それをいま再開して、なぜ違う結果を期待できるのか。
報復合戦も同じである。2月末から4月初頭までの40日間に及ぶ大規模な空爆作戦でさえ、イランを屈服させられなかった。7月7日から始まった限定的な応酬で形勢が変わる道理はない。
しかも現実には、クウェートもバーレーンもヨルダンもイランのミサイルで打撃を受けている。アラブ首長国連邦のフジャイラ港からの石油流出は止まり、紅海のバーブ・アル・マンデブ海峡も封鎖されようとしている。この応酬がアメリカに有利に働いている証拠は、どこにもない。
では、なぜこんなことになっているのか。
冷戦期、私たちは核抑止の論理を徹底的に学んだ。核兵器を持つ大国を追い詰めれば破局を招くと理解し、相手に逃げ道を残すことを戦略の要としていた。ハンガリー動乱でもチェコスロバキア侵攻でも、西側は介入しなかった。核保有国を存亡の淵に追いやらなかったからだ。ジョージ・H・W・ブッシュ政権が冷戦終結時にソ連を慎重に扱い、屈辱を与えまいとしたのも同じ理由による。
しかし、冷戦後の一極体制の中で、こうした戦略的思考は骨抜きになった。アメリカが唯一の超大国として君臨した時代に育った政策エリートたちは、核抑止もレッドラインも、もはや自分たちを縛るものではないと考え始めた。そして、この思考習慣は多極化した現在にもそのまま持ち込まれている。
ウクライナ戦争を見れば明らかだ。欧米はウクライナを事実上のNATO加盟国に変えようとし、長距離ドローンでロシア本土を攻撃し、制裁で経済を破壊しようとしている。ロシアは大国だ。核兵器を保有する大国をここまで追い詰めて、ただで済むと本気で考えているのだろうか。
ウクライナの戦場では、実はロシアがじりじりと前進している。しかし欧州の指導者たちは「戦況は好転している」というプロパガンダを繰り返し、和平交渉を一切拒否する。彼らは自ら戦うのではなく、ウクライナ人を盾に使っているだけだ。そして、もしウクライナ軍が崩壊し始めたら、欧州はどう出るのか。そこから先の展望は、誰も真剣に語ろうとしない。
一極時代に失われた戦略的思考が、いま私たちを危険な地点へと引き戻しつつある。核の現実を直視せず、大国のレッドラインを無視し続けることの代償は、あまりに大きい。
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John Mearsheimer(シカゴ大学政治学部 R. Wendell Harrison 特別功労教授)、Glenn Diesen(政治学者)
『John Mearsheimer: All-Out War in the Middle East & Trump's War on Russia』(中東全面戦争とトランプの対ロシア戦争)
以上引用終わり。時間ばかり過ぎ、災厄は迫り来る。どうも有り難うございました。